昨年に引き続き 東京マラソン 走ってきました。
昨年は 4時間6分で いわゆるサブ4(4時間切り)に僅かに届かず。
東京の街中の基幹道路をランナーが独占して走る醍醐味を味わえたので、
それだけも満足であったが、どうせなら サブ4も この地で達成したい!
という思いが 完走した直後から芽生えていた。

その後、ぼちぼち練習を続けていたものの、引きずっていた太腿裏の痛みを
解消すべく 一時は月間30キロも満たない水準までペースを落としていた。
サブ4達成するには、一般的には最低でも月200キロランは必須と言われているようで、
その意味からすると とても厳しい状況で推移。

でも やはり「サブ4」への思いはずっとあり、
太腿の痛みをおして 11月くらいから距離を延ばし始めた。
すると 不思議なことに 完全ではないにしても、
太腿の痛みは逆に気にならなくなり、月間100キロは走れるようになってきた。
もちろん、これでも先述のように サブ4達成のために必要な練習量には
遠く及ばないレベルなのだが、自分としては時間を作れる最大限の努力はしたつもりであった。
飲み会が無い限りは、たとえ夜22時くらいまで会社で仕事をしてても、
家に帰ったら食事の前に5キロは走るように心掛けた。
(サブ4達成のために 仕事を犠牲に ということだけは避けたかった。
仕事は手を緩めない。その中で サブ4を達成したい という思い)

そして12月の地元の青島太平洋マラソンでは 4時間1分25秒で完走。
この時は 30キロを過ぎたあたりから極端にペースが落ちて(5分30秒/キロ → 6分台/キロへ)
身体に鞭打って走った感じであった。

ただ これで40キロランを経験したことで身体が長距離に慣れることができ、
年末年始の休みに4日連続で10キロランをこなすと
それまで5分30秒/キロだったペース配分が 普通に走っていても5分15秒/キロで
走れるようになってた。
そして1月から2月にかけて20キロランを3回走ってみると
3回目には後半もペースを落とすことなく走れるようになっていた。
(本来なら30キロランを一回は入れるべきだったが、
週末も何かと仕事があり 20キロの時間を作るのが精一杯)

そして満を持して東京マラソンへ。
緊張のせいか2時間程度しか寝れていないこともあり
当日は異常なくらい温度が高かったせいもあり
序盤は 何となく身体にだるさを感じていた。
8キロ手前では さすがに それまで着ていたアンダーウエアを脱ぎ捨てたが、
そこから体が軽くなり 5分20秒くらいのペースで普通に走っていた。
一時は5分15秒くらいまでペースが上がっていたが、このペースを続けると
後半バテてしまうと危惧し意識的にペースダウン。
30キロを過ぎても、ペースが落ちることなく走りを継続。
この時点でも 5分20秒まで上がることがあったので 自制してペースを落とした。
そして 35キロ 過ぎても 相変わらず ペースは変わらず むしろ5分18秒まで
上がっていた地点があったくらい。
(もしかしたら、そのペースを敢えて抑えることをしなかったら もっとタイムが上がっていたかもしれない。
でも あくまで たら れば の話だが)
40キロからはキロ5分を切るペースで走っていたので
青島太平洋マラソン走ってから3カ月で 随分と体力がついたものだと思われる。
正式なタイムはまだ公表されていないが、手元の時計で3時間54分04秒だった。

そういえば アンダーウエアを脱いだときに 度付きサングラスまで その場に置いてきてしまい
それ以降は裸眼で残り約30キロを走破したことになる。
ちなみに 裸眼の視力は0.09。よく途中給水などトラブルなく走れたものだ。

出で立ちは へべす ルック。
靴は アシックスの YOGIRI(よぎり) ~社長がネーミングしたらしく「4時間切り」を意識したらしい。
銀座通りを一般交通を遮断して 道の両側に応援する人々を見ながら空間を走り抜ける あの感覚は
今思い出しても 爽快な気分になる。

 

なお、当日の参加ランナー38,000人の中で なんと外国人ランナーが45%を占めていたらしい。

スタート前   半分以上が外国人に見えた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

完走!!

 

 

 

 

 

 

 

タイム

 

 

 

 

 

 

 

後半ペース落ちず

 

 

 

 

 

 

 

 

月平均  一年平均では 70キロ/月 だが 後半は120キロ/月は 走れてた

 

 

 

 

 

 

 

前日、旭化成の 市田兄弟 と記念撮影